音楽との距離を点検すること

Apple Musicを解約してジョン・レノンマーヴィン・ゲイばかり聴いているんですが、そういう生活を送ってきて、思いついたことをつらつらと書いてみます。
 
ストリーミングを解約したのはレコードのぬくもりが…というようなこだわりとはまったく関係なくて、むしろ自分はそういうパッケージへのこだわりは薄い人間なので、配信される音楽そのものに関係することなんですよね。さらに言えば自分の中の問題で、単純に、あっ、自分ちゃんと音楽聴いてないな、と気づいてしまったというか。「ちょっと良い」ぐらいのものを全然真面目に聴いてない自分に気づいてしまったというのが大きいです。たしかに新しくて面白い曲を何万曲も聴けるんだけど、繰り返し聴くものは年間アルバム10枚ぐらいだなあという。なら月一枚ずつCD買ってた中学生の頃とそんなに変わらないんじゃないの?と思ったわけですね。
 
ストリーミングという技術はシーンやトレンドを包括的にとらえるためには適していて、特に2015年ぐらいからはアメリカの王道のポップス自体が大きく音響的に変化していったということもあり、その変化を追うためには最適の手段だったわけです。岡田拓郎さんがこの時期の音楽について「ジェームス・ブレイクなみの音楽が毎日現れてる感じ」(http://thesignmagazine.com/sotd/okada-takuro-interview-4/)と言っていましたがこれは貴重な証言で、自分の肌感覚としてもそういう感じに近かったです。そんな急激な変化を追う手段としてストリーミングという技術は最適だった。
 
でもシーンとかトレンドとか長期的にはどうでもよくなるというか、「捨てるために聴く」という部分があるんですよね。あれだけ衝撃だったジェームス・ブレイクの1stが「王道のポップス」に聴こえるようになり(ちょっと言いすぎか?)、むしろその歌心やメロディセンスが強調されて聴こえるように、いわゆるネオソウルと呼ばれるものをたくさん聴くことで逆説的に『VooDoo』の突出性が分かったし、いわゆるアンビエントR&Bと呼ばれるものをたくさん聴くことで『ブロンド』がいかに突出しているか分かったという経験があって。形式に慣れることによってたとえばフランク・オーシャンという個人の精神性やアーティスト性が深く迫ってくるようになる。またその逆もいくらでもあって、最初は新鮮だと思っていたような音楽が、形式に慣れることで意外に面白くないというか平凡に思えてくることもある。すなわちトレンドを取り込んだことで評価されてるものは所詮それ以上のものではないという、字にすれば当たり前のことがやっと腑に落ちて分かったというか。たとえばジミ・ヘンドリックスのやっていた音楽は70年代前後的なサイケデリック・ロックに分類できると思うけど、まったくそこには依存してないですよね。でもジミヘンの凄さや特殊性をはっきり分かるためには同時代のサイケデリック・ロックをいくつも聴かなければ分からないみたいなところもあって……。
 
もともと自分は「ペット・サウンズを理解できるまで聴く」みたいな明らかに作家主義的な聴き方をしていた人間なんだけど、ある時期からそういう「魂と魂の対話」みたいなのがなんとなく恥ずかしくなって、ファッション感覚でトレンドのものをザッピングするみたいなところに憧れてたところはあるんですよね。その感覚にストリーミングという形式はすごく合致してたわけなんだけど。でも実際にはファッション感覚だったらこんなに長く音楽聴いてないというか、中学生ぐらいの時の文学少年みたいな聴き方が自分を支えてることは間違いないと思い始めて、結局自分にとって音楽はきわめて個人的なものに過ぎないというところに戻ってきたというところなんです。2018年にこういうこと言うのはアナクロとか反動的とか言われても仕方ないと思うんだけど。
 
なんかだらだらと文章を書いてきましたが、この文章そのものが個人史にもとづいた自問自答から来たものなので、ストリーミングとフィジカルどっちがよいか?みたいな話ではまったくないことは断っておきます。でも逆に言えばそういう個々の内省や個人史を欠いたメディア論には正直あまり必然性を感じないんですが(謝っておいてすぐ毒を吐く)まあそれはいいとして。
 
同時に、趣味って何なんだろうなということも思うわけです。歴史上いま以上に「趣味」に比重が置かれた時代はないのではないわけで(たぶん)、でもそれと同時に日本全体が貧しくなっているということもあって、やや反動的に「しょせん趣味」みたいなところに振れたりもするわけだけど、やっぱりこれも一元的な答えが出るわけでもない個人の幸福の問題なので、ぼく個人としてはこれからも趣味とともに生きたいと思ってるわけなので、冷静に、斜に構えずに、趣味との関係性を点検し続けることが大事なのではないか?と思ったわけです。それはこの文章の影響もあるんですが。
 

趣味への取り組み方も、異性について多くのことを教えてくれます。最近は「オタクの婚活」が話題になったりもしますが、自分に近い趣味を持っているかどうかだけを気にするのでは不十分です。

多趣味な人にもいろいろな人がいて、単に飽き性な人もいれば、上達のコツを素早くつかむことによってたくさんの趣味をこなしてしまう人もいます。ひとつの趣味に打ち込んでいる人も、ひとつの趣味を深く追求しながらソーシャル・スキルもしっかり身に付けて生活している人もいれば、お金にも生活にもだらしないまま趣味に溺れている人もいます。趣味への取り組み方ひとつを見ても、その人について相当のことが類推できます。

(熊代 亨『表情乏しい金持ち"との結婚が危ないワケ 「性格」は表情や言動にあらわれる』   http://president.jp/articles/-/24728?page=4

 
前々から、深夜アニメを見てるだけの人、DVDボックスを買いまくってる人、二次創作を作りまくってる人などが一括で「オタク」と括られることがどうも納得できないと思っていたところもあって「好きなものとの関わり方は人間関係と同様に人それぞれで、そこに個々人の個性が出る」という文章には納得したわけです。だとすれば、その関わり方が健全かどうか、惰性になっていないかを常に点検する必要があるのではないかと。自分はちゃんと満足感をもって趣味に向き合えているのか、お金を使えているのか、どのライヴに行ってどのライヴに行かないか、みたいなところを自分でコントロールすることが重要ではないかと思いました。ストリーミングで何万曲も聴ける今より月1枚CD買ってた頃の方が満足感が高かったなら、自ら制限をかけることも必要なのではないかと。なぜなら、趣味においてはそれを選ぶことができるし、それこそが趣味の素晴らしいところなのではないかと思うので。