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Paper Planes

景色だけが変わり未来は過去になる

私とブルーズ

あなたがはじめてブルーズを聴いたのはいつだろうか?ぼくの場合、恥を忍んで告白すればエリック・クラプトンの『アンプラグド』ということになる。小学5,6年生のことだ。父親のCD棚にあったアルバムだが、そこに「ノーバディ・ノウズ・ユー」「ローリン・アンド・タンブリン」等のカヴァーが入っていた。

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ではその感想は?といえば、冴えないものだった。いわゆる「ブルースっぽい」進行(Ⅰ→Ⅳ→Ⅴ)は、アニメで「哀愁のブルース」「おやじのブルース」と戯画的に扱われることで(ぼくの中で)かなり陳腐なものになっていた。だから、「ノーバディ・ノウズ・ユー」を聴いても「親父のブルース」が頭をよぎり、「またこれかぁ」という感想しか持てなかった。メロディアスな「レイラ」や「ティアーズ・イン・ヘヴン」の方が小学生の感性には合っていた。

 

これと似たような体験をした人は多いのではないだろうか。現在、劇伴やCM音楽、カフェのBGMなどにのせて、雰囲気やイメージを高めるためにある種誇張された形で音楽は「流されて」いる。ブルーズ進行を聴いて「哀愁」というのは、ジャズを聴いて「バーっぽい」、ボサノヴァを聴いて「オシャレ」というのと同じように、あまり音楽を聴かない人の中では広範にみられる現象ではないか。

 

ともかく『アンプラグド』以降、ブルーズを素通りして生きてきた。ぼくがブルーズに再び出会ったのは大学生になってからだった。久しぶりに聴いたブルーズは強烈な異物として迫ってきた。「アメリカ文化史」のような講義で教授が流した音源、確かサン・ハウスマディ・ウォーターズだったと思うが、チリチリというノイズの向こうから切り裂くような叫びと、ガリガリビヨーンという異常なギターの音が聞こえてきた。

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そのノイズはかなり金属的(メタリック)なもので、ああ、ギターの弦は金属なのだなという当然のことを思い出した。演奏はきわめてシャープ、それを通り越して「ミニマル」とも思えるもので、強烈な現代性を感じた。それと同時にむさくるしい「おやじ」のイメージは彼方に消え去った。その後しばらく戦前のブルーズをむさぼり聴く期間が続いた。

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想像だが、きっとベックやジョン・スペンサーも『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』をこのように受け取ったのではないか。70年代英国のブルース・ロックのミュージシャンたちが広めた、いわゆる「ブルージー」な音やⅠ→Ⅳ→Ⅴの進行などが陳腐化した後に、彼らは「ノイズ」や「ループ感覚」の方からブルーズを再発見したのではないだろうか。その参照項はもちろんヒップホップやグランジである。

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なるほどこれは誤解には違いない。ただ、ブルーズはアラン・ローマックスの時代からロマンチックに誤解され続けてきた音楽である。ぼくは、「黒人以外にブルーズは分からない」という意見もある面では真実であると思う。しかしそれでもなお、「誤解」から新たな音楽が生まれる、その「過程」にこそ注目すべきだと感じるのだ。ミュージシャンが離れた時間・離れた場所の音楽を聴いて、新鮮な感動を受ける。そしてその感動を自らの立ち位置や視点から変換し、「現代の音」として甦らせる。この「感動の変換」こそがつねに音楽の歴史を更新してきたと思うからである。

 

音楽のファンダメンタルな在り方を設定し、それと矛盾するものを批判し排除するよりも、この「変換」がどのようにおこなわれたか、またはある音楽的モチーフがどのように受け継がれ、どのように変奏されていったか、について注目した方が多くの成果をもたらすのではないかと思う今日この頃である。