Grizzly Bear とAlabama Shakes, 失われた音を求めて

 

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2009年、アニマル・コレクティヴやハドソン・モホークが現在の音楽シーンにつながる重要な作品をリリースした年だが、この年ラジオでよく流れていた曲のなかで最近思い出したものがある。Grizzly Bearの “Two Weeks”という曲である。

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イントロの躍動的なピアノが印象的な曲で、地元のFM(zip-fm)で結構よく流れていたからヒットしていたのだと思う。近所のツタヤで彼らのアルバム “Veckatimest”を借りたのも、この曲が入っていたからである。Fleet Foxesなどと合わせて「チェンバー・ポップ」と呼ばれていることも知らずに、当時は単純にヒット曲の一つとして聴いていた。

 

なぜ最近になってこの曲を思い出したかというと、「森は生きている」岡田拓郎さんと「吉田ヨウヘイgroup」吉田ヨウヘイさんの過去のインタビューにこのバンドの名前が出てきたからである。

 

『じゃあ、自分の作品で音楽性を変えられないところまで作った後に、彼に加わってもらったらどうなるのか?』ってことでお願いしたっていう感じで。その時、岡田くんが『グリズリー・ベアみたいなことやろう』って言いだして(笑)。それでグリズリー・ベアのすごいプロダクションが凝ってるやつを聴かせてくれて。それがすごい刺激的で。自分にも合う方向だけど、自分には考え付かなかったんですよ。岡田くんと共同作業出来たのが二日くらいだったんですけど、そのレコーディング最後で学ぶことが多かったんで、この手法で次のアルバム行けるかも、って思って。今、そういうこと考えながら作ってるっていう感じなんですけど」

『Smart Citizen』制作時のインタビュー(http://thesignmagazine.com/sotd/okadayoshida1/)から

 

(また、岡田拓郎さんは最近のツイッターの発言でも相変わらず彼らのサウンド・プロダクションに関心を示していた )

 

 

その発言を聴いて“Veckatimest”を再び聴きなおしてみた。生楽器の質感を保ちつつダイナミズムを失わない音作りは、7年前の作品だがビビッドさを失っていないと思った。「チェンバー・ポップ」という箱庭的なイメージに反して演奏も歌も非常にダイナミックなバンドであったと今気が付いた。(あと単純に歌も演奏もめちゃくちゃウマい。)

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Grizzly Bear/Fine For Now

 

再聴してみて、特に4曲目の ‘Fine For Now’が印象に残った。この曲を聴いてとっさに思い浮かべたのはAlabama Shakesの'Don't Wanna Fight'である。

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Alabama Shakes/Don't Wanna Fight

 

ギターのジャリッという甘い響きや、遠雷のようなドラム(独特の残響感はスティーヴ・アルビニを連想させる)クアイアのようなコーラスの重ね方に共通点を感じた。天井の高い山小屋や教会のような場所で録音されたのではないか(グリズリー・ベアのアルバムは実際に1928年に建造された木製の山小屋を利用して録音されている)と思わせるサウンドであり、僕はこのサウンドを「教会サウンド」と呼びたいと(ひそかに)思っているのだが、ともかくこの両バンドの間に思わぬ共通点が見つかったので意外に感じた。両者に親しい交流があるとは聴いたことがないが、お互いの音源を聴いている可能性は大いにあり、どちらかがどちらかの影響を受けてこのような音響になった、または共通の「元ネタ」が存在することなども想像できる。

 

しかし時系列的な前後はあるだろうが、結果としてGrizzly BearとAlabama Shakesが類似した質感のサウンドを「選択した」という事実の方が重要なのではないかと思う。その音とは先ほど述べたような「教会」的なサウンドである。このサウンドの特徴は、生楽器のオーソドックスな感触を持ちつつも深い残響と強いアタック感を持ち、現在ラジオでプレイされてもメインストリームのポップスに鳴り負けない強い音になっていることである。

 

面白いのは、海を越えて日本の「森は生きている」や「吉田ヨウヘイgroup」がこの音に反応したことである。彼らもまたGrizzly Bearなどと同じく60~70sのスワンプ・ロック/フォーク/バーバンク・サウンドなどを愛する若者たちである。彼らの中にはノスタルジーというより、むしろ半世紀前の「失われた音」「あの世の音」(細野晴臣)に対する新鮮な驚きと感動がある。このような場合、過去の音楽(現在の形式とは異なった技法で描かれた音楽)を聴いて得た感動をどうやって現代に「変換」するかということが問題になる。この問いに対するひとつの解法としてこの「教会」的なサウンドが選択されたのではないか。

 

おそらく、この「過去の音楽から受けた感動をどう変換するか」という問題関心を持っているのはアメリカ・日本の若者のみではない。2000年代中盤から、インターネットの普及・動画共有サイトの広がりによって過去の音源にアクセスすることはかつてないほど容易になった。このアーカイヴの時代において、ある種の若者たちは世界中で同じことを考えているのではないかと思うのである。

今後はインドネシアやタイ、韓国などから過去のものを換骨奪胎した新しい音が出てくる可能性がある。そのようなミュージシャンたちの同時多発的な試みが、これからの音楽シーンにおいて重要さを増していくのではないかと考える。というよりもそれはもう始まっているのではないか。