吸い雲レコード

景色だけが変わり未来は過去になる

トム・ヨーク『ANIMA』雑感

トム・ヨークの新しいアルバムが発表されました。その内容としてはシンセとリズムマシンを主体にした比較的シンプルな楽器構成で、なおかつポップス的なカタルシスをもたず淡々と流れ、もう十分だと思ったら終わる…というような自由な展開の曲が多かったように感じました。PTAのショート映画のサウンドトラックという成り立ちもあってだとは思いますが、それほど気負わずスルッとつくったような作品という感じを受けました。

レディオヘッドが21世紀にもっとも大きな影響力を持ったグループだということに疑いはないでしょう。『ザ・ベンズ』以降、彼らの音源にかけられる期待や求められるクオリティは常に高く、それに応えるなかで磨き上げられたサウンドには並々ならぬ緊張感が常に漂っていました。

やがて、それらの作品に並行してトム・ヨークはソロ作品をリリースするようになりました。それがどのような経緯だったのかは実はよく知らないのですが、『イレイザー』以降、それらは常にレディオヘッドに対して簡素ともいえるシンプルな構成で、コードも少なく、またフィジカルなビートをともなったものでした。

レディオヘッドの音源が絶賛されるにせよ酷評されるにせよ常にシリアスな批評の対象になるのに対し、トムのソロ作品は一種扱いに困るところがあったような気がします。わたし自身も取っ付きにくさを感じていたというか、その淡々とした佇まいに拍子抜けした印象を抱いたのも確かです。

さいきん彼の作品を聴いていてその印象はだいぶ変わりました。なかには一筆書きのように見える作品もあるのですが、だからこそトム・ヨークという稀有な作曲家の特徴や嗜好が分かりやすく見えるというか、あえて言えばその「書き順」までもが見えるような気さえしました。たとえば、この曲はドラムマシンのリズムから作ってるんだろうな…とか、このぐらいのテンポ感で曲を作り始めることが多いのだろうな…とか、そんな作り手の姿までもが見えてくるように感じました。

今回の『ANIMA』でもその印象はあまり変わらず、レディオヘッド本体よりもより自由にシンセやリズムマシンと戯れる音楽家としての姿が目に浮かびます。特に耳に残るのはシンセやサブベースの使い方で、1曲目の「Traffic」ではエグいハネたリズム(この人の曲のハネ方というのは実に独特なものがありますね)に乗ってファットなサブベースが鳴り響き、彼自身がつねづね愛着を語ってきたダブステップ〜グライムの要素がかつてなく素直に現れているように感じます。

わたしが特に好きなのは「Runwayaway」で、テクノ的に延々と続く構成のなかでさまざまな音色のシンセやリズムマシンなどが抜き差しされるという展開に面白さを感じました。左チャンネルの鍵盤の音色などはひじょうに美しく新鮮だと感じました。また柔らかいムーグの音色が美しい「Dawn Chorus」や、「15 Steps」の骨格を抜き出したような「Twist」(「yeah!」というかけ声が否応なくかの曲を連想させます)にも魅力を感じました。どの曲にも純粋な音楽家としてのリズムや音色への興味が素直に現れていると感じ、そこに好感を抱きました。

ひるがえって、このアルバムが映像作品のサウンドトラックとして制作されたということも面白く思います。近年ではメジャーなアーティストが映像作品と何らかの関わりをもった作品をリリースすることが多く、トム自身の『サスペリア』がそうですし、ザ・ナショナルの新作、ソランジュの傑作『When I Get Home』などもそのような成り立ちでした。そして、その起点を探すならばフランク・オーシャンの『Endless』が大きく浮かび上がる気がします。

これらの作品に共通するのは映像作品の「劇伴」として制作されることによってポップスの定型に収まらない自由さを得ているということで、ある種の「実験場」として劇伴という形態が機能している感じがします。

ポップ・ミュージックとの関わりでいえばマーヴィン・ゲイアイザック・ヘイズが斬新な音楽作品をブラック・エクスプロイテーション映画のサントラとして発表した歴史などを思い浮かべますが、「劇伴」という制約が入るがゆえにかえってセルフイメージやポップスの定型から離れた音楽制作が可能になるのかもしれませんね。この音楽と映像との結びつきは今後も進化するだろうし、面白い作品が出続けるのではないかなあと思いました。